2015.10.11
            「ぼっち」の権利
   
                        堀田あけみ

「ぼっち」はいわゆる若者言葉の一つ、「一人ぼっち」を省略したものです。「孤独」より、軽い感じ。「孤独」という単語は、二つの側面で「ぼっち」とは異なると感じています。本当に頼るものがない絶望を含んでいる面と、孤高の存在であるという崇高さ。「ぼっち」には、どちらも希薄なんですな。「友達とのスケジュールが合わなかったから、今度のライブはぼっち参戦」てな使い方をします。
 我が家において、「ぼっち」はマナトの代名詞。本人が自称しています。傍目には、いうほどではありません。でも、人との距離の取り方が巧みな子ではないのも確かです。ただ、群れないことを選択しているのは本人です。
 高校に合格したとき、私たち親は、彼にスマホを買い与えるのは当然だと思っていました。だから、いらない、と言われたときには、戸惑ったものです。
「だって、携帯持ってると、相手からのコミュニケーションを遮断できないじゃん。中学生には(当時は、中学生でしたからね)、『アドレス教えて』に対する答えって、『いいよ』しかないんだよ。もう少し仲良くなってから、とかは『お前が嫌いだ』と同じ意味になっちゃうから。重たいから、携帯は」
 その発想は敬意に値します。しかし、電車に乗って(地下鉄4区間とはいえ)通学する子と連絡が取れないのは、いざというときに心配なのが、現代の親。昔は、連絡取れなくなるのが当たり前だったのに。私なんか、マナトの年頃には、携帯もメールもない時代に高校生が一人で東京行って仕事してましたのに。
 そこで、iPadミニを買って、メールアドレスも取得しました。これなら、アドレス教えて、に対して、教えたくないときには「携帯持ってない」、教えようと思ったらすぐに教えられます。
 マナトの発想は、友達が何度かメールを巡ってトラブルに遭遇したことから来ているようです。でも、今の世の中を生きる高校生が、「携帯を持たない」時点で、かなり肝が座っていると思うので、彼の意思は実は嬉しかったりします。それから、
「一人になる、権利がほしいんだよね」
 とも。
 親子だなあ。
 私も10年前まで携帯を持っていませんでした。おとうさんからは、何度も持つように言われたのですが。というか、おとうさんは、持つことが当然で、持たないことは不便で不幸だと思っているので、何度も勧めたわけです。
「私、行方不明になる自由が欲しいんですよ」
 便利なのはわかってる、嫌悪するほどの思い入れもない。でも、そういうことなんです。
 自分の携帯を買ったのは、万博のときですね。広い会場で、はぐれたときに困らないように。一度買ってしまうと、必需品。2年前、スマホに変えました。
 カイトは高校入学と同時に見守りケータイを買いました。持っているだけで、使いません。見守る一方です。
 コトコは本音をいうとスマホが欲しいと思っています。だって、お友達はほとんど持ってるもん。可愛いケースをヴィレッジヴァンガードで買って、いつでも動画を見たりしたいと思っています。メールとかはあまり興味ないみたい。社交的な割には、女子のお付き合いは面倒だと公言していて、友達が夜遅くまで「くだらないメール」(「おやすみ〜」「おやすみ〜」「また明日学校でね」「うん、ドッジしようね、じゃあね」「じゃあね」と延々終わらないそうで)に悩まされているという経験談から、「やっぱりめんどくさいもの」と認識しているようです。
 ただ、ドライなコトコさんですので、
「別になくていいよ。携帯は高校に入ってから、っていう親の方針はわかってるから」
 と言ってくれます。
 どこの家庭でも、いつ与えるかは問題になると思います。ならなければ困ります。というのは、幼少の頃から、何も考えずに持たせておく親は、弊害に思い至ってないわけですから、問題意識くらいは持ってもらわないと。家族でちょっと討論するくらいでちょうどいい。悲しい事件にSNSが絡んでくることも多くて、安心・便利と十代の心の闇の部分を一度天秤にかけないと、と思います。闇を持たない子どもはいないから。音楽も文学もマンガやアニメも、その闇に支えられている部分は否定できません。
 そして、その闇とうまく付き合う一つの方法が、実は「ぼっち」の利用だったりするんじゃないかと。寂しいから嫌、ならいいんだけど、恥ずかしいから無理して誰かといるのは、実はすごくしんどいことです。
 大人になるまでのどこかで、覚えておく必要があるんじゃないのかな。「ぼっち」になる権利の使い方を。
 誰だって、一人になりたいときはありますから。



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