2025.03.10
毎日、こつこつと地道に普通に生きてます。
そんな私は、普通ではあるが平凡ではないらしいです。
昭和の時代に17歳で作家になって、デビュー作が映画やドラマやマンガやラジオドラマになるような生き方なので、当然ちゃ当然ですが。おまけにその映画の監督を鳴物入りで務めた人物が、後に網走刑務所に入るようなことをしでかしたりするので。そこまでのドラマは求めとらんのよ。
夫は網走での取材中に病気がわかって入院、そのまま亡くなりました。そのときお世話になった主治医の先生とは、今でも仲良しです。先生ご自身も病気と闘いながら、他者の病気を治すお仕事をなさっています。夫が亡くなった翌年の夏、先生に会いに網走に行って、あちこちご案内いただいた際に、
「ここが、あの網走刑務所」
「あ。知り合い入ってました」
との会話で仰天されました。曰く、みなさん、あ、ここがあの、だったり、以前きたよ、だったりするのに、入ってた人と知り合いってパターンは初めてです、と。あけみさんて、そういう人と関係あるイメージなくて。そういう人ってどういう人? てな話ですが、実は私だから、そういう人と知り合う機会があるっていうのも事実でして。結構親しくしてた方が有罪で、というケースは複数あります。貰っちゃいけないお金を受け取っちゃったって言うのは、社会的に偉くなったから、お金を渡そうとする人が出てくるわけだし、いわゆるハニートラップ的なトラブルはやっぱり社会的にある程度以上の地位にあって知名度もあっての人がターゲットになるし。
そういったイレギュラーが普通の人生なので、多少、自分の予想と離れた事態や、理解の外にある現実に向き合っても、あーそうですか、で済ませる。次男の障害も、長男のうつも。
私にとって、A S Dの診断が出たということは、彼らの理解できない行動に、一つの回答がなされたという意味を持ちました。「理解できないのはなぜか」に対する「発達障害だから」という答えが示された、即ち「対応策がある。但し、万全ではない」に繋がるからです。それは、今まであなたを躾も碌にできない駄目母だとか、あなたのお子さんを悪い子だとか言った人がいるとしたら(ほとんどの人が言われている)、その人は間違っていたということでもあります。
大体において、まずこの前提は共有されてきました。その上で、「我が子に障害がある」という現実を受け入れることができなかったり、誰かにあたってしまったりだと思っていました。
それはきっと、アスペ・エルデの会に辿り着く人だから、堀田あけみの講演会に来る人だから、なんだな、と還暦にして悟った次第。幼稚園にいると、診断を受ける前段階の相談から始まって、現状と付き合える人とそうでない人の差が、どんどん開いていくのを見なければいけません。これも軽々に判断できないもので、「現状と付き合えている」から子どもがよく順応しているのか、親の養育態度がそういう子を作っていくのか、わかりませんものね。
診断名がついたことで、「普通に性格悪い方が良かったのに」。
デイサービスの案内で「差別された」。
最終的に「医者の言うことは信用してないんで」。
アスペ・エルデの会にいては、出会えないタイプです。でも、きっとたくさんいると思う。私が思っているよりもっと。そんなふうに思うようになりました。担任の先生も援護に回っているので、私を敵と設定しての、これでもかのヘイトをぶつけてきます。
別に、診断名を受け入れてくれることで、私が得するわけじゃないんですよ。あなたが損するわけでもないけど。ただ、受け入れないなら療育が不要だと言うなら、ご家庭の責任で周囲に迷惑をかけないだけの躾をしてください、と言うことです。
多分、私が別の専攻を持つ学者だったり、保育者だったりしたら、ここで終われると思います。でも、この先があるので。子どもに罪はないとか、診断が出た直後は親も混乱してるから、ということの他に。
このまま進むと、被害者が出る可能性があるから、です。多動や他害の傾向が放置されたら、D Vにつながる可能性が高い。被害者にこそ、罪はないのです。目の前にいるのが小さな子だから、大きくなったときのことは考えにくいし、考えたくない。気をつけて接した末に、何かが起こるかもしれない。何も考えずに育てても、そこそこの大人になるかもしれない。後悔しないためには、いつもできる範囲での最上をする。わかっていても難しいですよね。
「私は先生とは違うんで、ほっといてください」
ほっとけたら、どんなにいいでしょう。でも、ほっときませんよ。
「この子の未来のためとか、どうでもいいです。今、そんなこと、考えられないんで」
いえ、未来の被害者になる可能性のある人のためです。その人を、被害なんて知らない人にするために。
女子大にいて、学生と頻繁にコミュニケーションする立場にいると、D Vの被害者の話を聞くことは多いので。彼女達の特徴は、自分が被害者であるとは思っていない、認めないところなので。
彼女達は頬骨が折れるほど殴られて、「頬骨って折れやすいんですって」で済ませるんです。折れやすい骨だって、折っちゃいけないんですよ。
だから折らない人を作りたい。それだけです。