2022.07.10
 病床の父親と面会した子ども達と私は、今後の方向性を確認することにします。
 面会の翌日、朝食を摂りながら、打ち合わせをしました。
 今日の10時に朝一で再度面会する。
 明日のお昼の飛行機で名古屋に戻る。
 お父さんが本当に危なくなったときの看取りには、お母さんが一人で網走まで来る。
 ホテルの部屋に戻って、9時半まで一休み、と思ったとき、電話がかかってきました。
 血圧が低下している、今から会いにきてください、というものです。
 一旦勢いをつけたら、死は一直線に走ってくるものなのだと思いました。

 こんなときにも検査はしなければなりません。病院ですから。免疫力の落ちている人が入る病棟ですから。
 でも、結果もそこそこに病室に入ります。
 もう、意識はない、と子ども達は言いました。
 私はそうは思わない、と答えました。私たちが部屋に入ってから、明らかに心拍と血圧が上がったのが見えたからです。
 昨日と同じ。
 息子達は遠くから見ています。いや、遠く無いんだけど。足元なんだけど。でも、私には随分遠くにいるように見えました。ずっと父を呼びながら、体を摩っている娘に較べたら。
 ちゃんと体は温かく、心拍が落ちかけても、呼びかけると、また上がってきました。
 そのとき、病室に入っていらした看護師さんが言いました。
「奥さんと長男さん、抗原検査で陽性が出ていますので、再度P C R検査を受けていただけますか」
 なんかもう、ここに来て、なんなんだよ、これ。断れる訳ないじゃん。
「検査行ってきます。待っててね。愛してますよ」
 私はずっと握っていた手を放しました。
 隣室で検査を受けるのは、ほんの数十秒。
「結果は、もう良いです。今、心音が0になりました。奥さん、病室へ」
 病室では、長女と次男が泣きじゃくっていました。次男は、形式的というか、腕を手に当てて、うわあん、と泣くというより、台詞を読んでいるような感じですが、長女は文字通り、号泣していました。
「お母さんが手を放したら、心拍どんどん落ちちゃった。私一人のときに死んじゃった」
「お兄ちゃんもいたから、ね」
 とりなす看護師さんにも、
「これは数に入りません」
 こんなときにも、舌鋒鋭いうちの娘。
 11月17日午後0時8分。
 破天荒、無頼で鳴らした写真家が、最後まで追い続けた被写体に一番近い病院で、家族に囲まれて眠るように逝きました。
 
 病院で死ぬとはこういうことなのですが、死の直後に何が待っているのでしょうか。
 退院です。
 6週間の荷物をまとめて出て行かければならないのです。できるだけ早く。それも、A D H Dで(昭和生まれ故、未診断ですが、まあ、そうでしょう)整理整頓とは無縁です。網走に住んで、あちらに知己もありましたから、その場で「ホテルまで持って帰れる最大限の荷物」の量の目星をつけ、持って帰れない分を、そちらにお願いすることにします。他人にお願いするのは、迷惑がかからないもの。この場合は、タオル類と清潔な衣服でした。それを分類して、取りに来ていただきます。
 そうこうしている間に、体を綺麗に拭いてもらって新しい寝巻きを身につけた夫が戻ってきます。髪も整えられていました。本人は随分髪が抜けたと気にしていましたが、かなり残ったままでした。抜けてしまうまで、生きていられなかったということもできます。
 原発は肺がんでしたが、転移先の肝臓が悪化しての死でしたから、黄疸がきつく出たままです。看護師さんが、娘に死に化粧の仕方を教えてくれました。ほんの数刷毛、言われるままにファンデーションと頬紅をはたいただけで、綺麗な顔色になりました。
 反抗されながら、最後まで溺愛した娘に顔を作ってもらった彼の顔に白い布がかかった瞬間こそが、私が本当に彼の死を認識した時間だと思います。
 でも、まだまだ感傷に浸る暇はありません。退院していく先は? 斎場しかないのです。自宅がないわけではないですが、粗大ゴミ置き場と化しているに違いないアパートには帰れません。だから、自分で知らない町の斎場に電話をします。
 実は、昨晩の時点で調べていました。網走には2つしか斎場がありません。こちらでは、と目星をつけておいたところを、看護師さんが最初に勧めてくださいましたが、空きがないと言われました。ここで、軽い恐怖に襲われました。もう一つも空いていなかったらどうしよう。二つしかないって、隣町にいくのかしら。隣町ってそもそもどこよ。まあ、空いていたからよかったんですが。
 子ども達はここでホテルに帰しました。斎場に行く車には一人しか同乗できません。ホテルに戻る途中でセイコーマートという、北海道にしかないコンビニがあって、ここの店内調理のものが美味しいので、それを買ってお昼にするように言って。
 私は彼と二人、お世話になった先生と病院スタッフさんにお別れしました。
 遺体を安置して、手続きをして、支払いもして、それから何よりも火葬許可を取らないといけません。今度は網走市役所です。そう言えば、今日送るつもりなんてなかったから、私は彼の元気が出るように、彼の愛した被写体であるシマエナガちゃんのリュックと帽子で来ていました。結局、そのまま走り回って、火葬まで過ごすことになるんですがね。
 あ、それから、いろんなとこに連絡しないと。まずは、私の実家。これから、何かと力になってくれるのは、姉夫婦と今も元気な私の実母です。職場にも。この週は、外部の会議がぎっしりつまってましたから、そちらへの連絡。進行中の夫の仕事のパートナーさん達。
 ここまで考えて、あ、夫の生家サイドにも、と思いついたのは、私が薄情なのか、それまでの人間関係の結果なのか、まあ、お察しください。夫の母は入院していて、動かせる状態ではないし、義兄とはここ20年お会いしていない。義妹に連絡したら、すぐ来るとのことでした。後は、荼毘に伏すだけで、式は改めて名古屋でしますが、と伝えましたが、やはり来ると。
 私の手元に戻ってきた、彼のスマホで、頻繁に連絡していた人をチェックして、私のアドレスから連絡をしようと思っていました。彼のスマホからが一番楽ですが、皆さん、彼の反応がないのを随分心配していらしたのです。やっと返事が来たと思ったら訃報だったなんて、嫌ですよね‥。
 結局、そうしてしまったんですけどね。彼のスマホの待ち受けは、ずっと彼の一推しの動物写真でした。自己紹介の代わりに、「今、こんなの撮ってるんですよ」と見せられるようなもの。最後は、モモンガだった筈です。
 画面に触れたとき、浮かび上がってきたのは、私でした。彼の最後の待ち受けは、二人で撮った写真です。他人事のように思ったことを正直にかきますね。
 幸せそうな夫婦だなあって。
 素敵な笑顔だなあって。
 そんな気持ちになってしまったら、ちょっと、他の方への配慮どころではないという気持ちになって、そのまま訃報を送ってしまいました。すみません。

 一度、ホテルに戻って、娘と会って、私もお昼にしました。ちゃんと空いたんですよ、お腹。状態が不安定だからと、初めてこちらに伺ったときには、一向に空腹を覚えなかったのに。セイコーマートの、しっかり握られたおにぎりが、とても美味しかったのを憶えています。その美味しさは、私はまだ大丈夫、という何よりの証拠でした。
 また、斎場に戻って、きてくださった地元のアマチュアカメラマンの皆さんにご挨拶をして、義妹にも会って。彼女が来てくれたのは、結果的にはありがたいことでした。彼女が来客対応を担当してくれたので、私はずっと彼の近くにいられました。
 長く闘病した父は、窶れ切って逝きましたが、いきなりの死は夫を張りのある若々しい顔のままにしました。
 その隣で泊まることもできましたが、子ども達がいます。ホテルに戻りました。
 晩ご飯は、ホテル近くの洋食屋さんにしようと思っていました。秋に一人で来たときに、たまたま立ち寄ったら、とても美味しかったのです。
 でも、そこは定休日でもないのに、灯りがついていなくて、張り紙等も無くて、仕方がないから、名古屋では見かけないファミレスに行きました。夫のスマホにアプリが入っていたから、頻繁に足を運んでいたのだと思います。
 長い長い一日が終わりました。
 朝には、彼が生きていたんだと、改めて思いました。
 知らない町で、死を看取って、斎場を手配して、火葬許可を取って。
 明日は、子ども達を名古屋へ帰します。


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