2022.06.10
 患者と家族と主治医は戦友になると良い。
「べき」という言葉を使うのが好きではないので、敢えて「良い」と言います。「べきだ」と言えるほど偉くないという自覚はある。じゃあ、そう言える人を「偉いなあ」と尊敬するかというと、胡散臭いなあ、という目で見てしまう私なので。
 私は主治医の先生と長い時間を共に戦う友として手を握るべく、網走に行きました。そのつもりでした。
 手を携えて私達は、その後も連絡を取り合って、次々と起こる変異に対応してきたのです。それは先生の言葉を借りれば「理解に苦しむ」もの。薬の副作用だとも考えにくいのです。時期的にも、起こる順番にしても。
 夫は、はまっていた妙な健康法、完全に糖質を断つ、つまり肉と卵しか食べない、他の栄養はサプリで摂ることを三年続けていました。前にも書きましたが、彼の信仰によると、がん細胞は糖を食べて育つので、糖を断てばがんは死ぬのだそうです。
 いや、糖断った状態で、すくすくと育ちましたけど、びっくりするくらい。
 がんを順調に育てた上に、経験豊かな先生でも見たことないような身体に、彼は作り替えられていたのだと思っています。
 大きな波を幾つか越えて、どうにか一段落がついたと思いました。
「リハビリ頑張ります」
 LINEのメッセージには、サムズアップの絵文字が添えられていました。金曜日のことです。

 しばらく、先生からの連絡は無く、私達は日々を丁寧に過ごして時間が過ぎました。
「意識のあるうちに、家族の皆さんにきていただいた方が良いと思います」
 それが次のメッセージでした。
 月曜日、仕事を終えて、夕食を作って食べて、携帯を手にしたときのことです。夕食を作り始めると、食べ終わるまで、携帯は見ないことが多いのです。その間、90分ほどですが、普段の着信の少ない私のLINEに6件の着信があり、夫の急変を知らせていました。
「率直に言って、生きて自宅に戻ることは難しいということですか」
 という問いへの返信は、
「厳しいと思います」
でした。 
 さて、ここでも何度も触れましたが、ここ二年ほど長女は父親と口をきいていません。反抗期ではなく、ちゃんと理由あってのこと。それについては、改めてお話しします。そんな長女は受験生でもあります。ここで、父親の元に行くかどうかの選択をしなければなりません。
 予想通り、彼女の答えは「否」でした。そう答えて、そのまま塾へ行き、私は三人分のエアチケットとホテルを取りました。彼女は三日間くらい、一人でやっていける子です。

翌朝、彼女は泣き腫らした目をして言いました。
「やっぱり行く」
 塾は、通信制です。家でも授業は受けられますが、彼女は家だと集中できないので自習室で受けているのです。昨夜、あれから塾でずっと泣いていて、布団の中でも泣いていて、自分は行かなければいけないと思ったのだそうです。
 私は強制はしたくなかったけれど、彼女の言葉を待っていました。早速、飛行機の座席とホテルの部屋を追加です。無事にとれて安心しました。
 長女の高校と、次男の職場に連絡を入れます。次男の方は、ジョブコーチさんといつも仲良くしてるので、LINEで予め個人的にお知らせはしてありました。
 長男は休学中なので。
 大学の講義は、どのような理由であれ、休めば補講が必要になります。それは、学生にとって負担になるので、火曜日の午前中は授業をします。北海道行きの便は夕方です。今日はとりあえず網走泊、明日の午前中にお父さんに会いに行く予定でした。
 けれど、足取りを速めて悪化していく容態は、けしてその速度を緩めませんでした。
 空港で先生から連絡が入ります。
「ホテルに行く前に、まず病院にお願いします」
 空港から病院まで、この人数だと予約制の定額タクシーが一番便利だということで、予約方法まで送ってくださいました。
 きっと覚悟してたんでしょう。私達は。口には出さなかったんだけど。誰も取り乱さず、泣いていた娘も落ち着いて、札幌で乗り換えるときにはちゃんとご飯も食べました。鮭といくらときのこのお茶漬けセット。美味しかった。
 飛行機は少し遅れて、妙に揺れて、乗り物に弱い長女は気持ち悪くなってしまったけど、網走に着きました。一日到着が遅れてた私一人のときに較べたら順調です。
 夏に夫に会いに、一人でここまで来ました。その日は天気が良くて、空港から市内へ二人でドライブする道の風景はとても綺麗でした。今は、真っ暗で何も見えません。ここがどこなのかもわかりません。

本当は亡くなる人でも、家族の付き添いは二人までとなっていたようです。でも、特別に四人が入れてもらえました。なんとなくですが、名古屋の病院ではこうは行かなかったのではと思います。
抗原検査は全員陰性で、私達は病室に入りました。
「お父さん!」
 一番に駆け寄ったのは長女でした。
 意識のあるうちに間に合って良かった、と言われました。私もそう思いました。
 でも、子ども達に取っては、もう意識は無いも同然だったようです。きちんと答えてくれないんだもの。私は、実際に会ったときも、動画付きの通話でも、かなり意思疎通が難しくなってきたなあ、と思ったときがありましたから。糖を断っていたので、脳が萎縮してしまって、せん妄になることも多かったのです。
 そのときに較べたらむしろ。
 思うような声が出せなくても、縋るような目でこちらを見る彼は、ずっと本当の彼に近いと感じました。
 私と長女がずっと彼の体を摩っている間、息子達は病室に入り口近くで、固まっていました。
「もっと近くに行ってもいいんですよ」
 ナースさんの声かけにも、
「いや、いいです」
 と答えただけだったそうです。
 先生は、いいのかしら、と訝るナースさんと、
「父親と息子ってあんなもんなんじゃないの、多分」
 と、お話しされたようですが、実際には、
「あんだけ反抗してた妹が、駆け寄った瞬間から、もうこっちには手を出せない雰囲気になった」
 とのことです。
 遠巻きにしていた息子達はともかく、駆け寄った娘にとっては、黄疸が出ていて、肌だけでなく、目まで黄色く濁っていたことがショックだったようでした。夫が滲ませた涙を拭った後で、
「生物基礎で黄疸について習ったばかりだから、本当に目まで黄色くなるんだって思った。黄疸になると、水分がいろんなとこから出てきて、それがおしっこと同じ成分なんだって。触っちゃった。きっしょ」
 と枕で指を拭っていましたが、後に名古屋でお世話になった先生に伺ったところ、涙管には影響しないそうです。声は出ないけど、意識はあったので、きっと娘の指の感触も伝わっていたと思います。反抗ばかりしてた彼女が最期に父親を呼び続けたことは、何よりの親孝行でした。夫は彼女を溺愛していたので。彼が残したP Cにある写真のデータには、娘の名前のファイルがとんでもない数入っていました。
 しばらくして、私達は先生から説明を受けました。きちんとデータを示して、丁寧に経過を話してくださいました。病院のルールにより、C Tの画像のデータを私達がいただくことはできないので、写真を撮らせてもらいました。どこかで、必要になるかもしれません。もっともらしく、がんは放置で治るとか、糖質を断てば健康になるとかいう説に対し、私の夫は普通の食生活をして、早期からがんの標準治療を受けていたら、まだ生きていたと思う、と主張する機会が私にはあるかもしれないので。
「手は尽くしたけれど残念な結果になりました」
 はい。尽くしてくださったことも、忙しい中、逐一お知らせくださったことも、充分に理解しています。ありがとうございます。
「あとは、できるだけ安らかに最期を迎えていただきたいと」
 この時点で、私は子ども達に言いました。
「明日、お父さんと過ごして、明後日、名古屋に戻ります。それが、お父さんとの最後の時間。今度、本当にお父さんが最期を迎えるときには、お母さんは一人で来ます。納得してくれる?」
 意識がない状態でも、あと何日かは生きていけると思っていました。
「明日の面会は十時からです」
「では十時に伺います」
 そうお話しした後、もう一度病室に入って、お父さん、もうホテル行くね、と伝えました。
 一人で来たとき、そう言うと、
「僕を置いて?」
 と怒ったように訊きました。きっと、今はもっとそう思っているでしょう。
「またな」
 長男が、夫の足に軽く触れて、そう言ったことを鮮明に覚えています。
 いや何、軽くね。
 かっこつけてないで、正直になれよーって思ったもので。


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