2022.02.10
 夫の癌が分かったのは9月の初めでした。その直後、数日間、網走から名古屋に戻ります。兎にも角にも、家族の顔が見たかったからです。
 それまで、夫が名古屋に戻るのは月に一度くらいでした。直前にワクチン接種の為、帰宅していますし、すぐ2回目の接種の為に移動することを考えたら、イレギュラーな帰宅です。偶然、長女の誕生日にもかかっていました。
 自分がもうすぐ死ぬかもしれない、という大きな不安は、彼を一人にさせてはくれなかったのでしょう。
 我が家の近くに、夫の仕事場としてワンルームマンションを借りています。彼が名古屋に着くと、まずは、そちらに行って二人で話をしました。子ども達のいないところで話を詰めたいのと同時に、二人の時間を持ちたかったのです。
 まず、彼が言ったことは。
「死んでもいいんだよ、僕は。人生に一点の悔いも無い。あけみちゃんのおかげだ」
 私は結婚してから26年間、彼から生活費をもらったことはありません。お金の話はいつも、カードの請求が払えないから助けて、というものでした。そのことに関する感謝は、いつもしてもらっていたので、当然だと思っている、とは認識していませんでした。ただ、泣いて悔やんでも、すぐ忘れる。欲しいものがあれば、後先考えずにお金を使う。多動だなあと思います。
 でもお金の問題だけではない。妻が社会的な地位を確立して働き続け、子ども達を育て、ワンオペレーションで家事をしてきたおかげで、自分は好きに写真が撮れたし、子ども達もそれなりにちゃんと成長している。その認識は、ずっと持ってきたのだと、その一言でわかりました。
 私と夫の最後の日々は、こうした二人の絆の確認のために使われました。一方ならない苦労はしたけれど、今、彼と生きて幸福だったと思えるのは、この時間があったからです。

 このとき、これから、どうやって癌と生きていくかを考えるために、彼のフェイスブックから、病気を指摘したお医者さんともお会いしました。彼女も特別な、苛烈な人生を自ら選んで歩んでおられる方です。現場のお医者さんを冒涜するような投稿もしていた夫を、よくも見放さず、導いて下さったと思います。
 ここで、彼は一つの決断をしました。癌がわかってからも彼は断糖を続けていました。おかしいですよね。彼の信仰する理論(支持とかのレベルではない)によると。癌は糖を食べて育つ筈なんです。だったら、断糖しているのに癌がすくすく育った時点で、まやかしだと判断するべきでは。食欲はなく体重はどんどん低下しています。ダイエットだと喜んでいる場合ではありません。
 このとき相談に乗ってくださったお医者さんに、これ以上(以下と言うべきか)体重を減らさない方が良いというアドバイスを受けました。病気と戦う体力がなくなってしまうからです。ビタミンの大量摂取は、まあ、やってもいいけど。でも、大量に摂取したものは、おしっこになって出ちゃうよ、とも言われました。最後まで、彼はビタミンに拘っていました。私は、それも彼の命を縮めた要因だと思っています。
 この日、彼は2年半にわたる、完全に糖質を断つ生活をやめました。
 翌日、長女の誕生日には、イタリア製の万年筆をプレゼントしました。一生ものを一つ、贈っておきたかったそうです。そして、長男と次男、私は春生まれなので、クリスマスに一生忘れない素敵なプレゼントを贈る、約束しました。
 二人で美味しいパスタを食べて、栄で買い物をして、晩ご飯にはちらし寿司を作って、ケーキを切って。久しぶりに、家族で同じものを美味しく食べました。
 子ども達には、事前に私から「お父さんに癌が見つかった」ことは伝えてありました。娘は、彼からのLINEの画面を一緒に見ています。それでも、本人の口から伝える必要があると思いました。
 これから、とても短く限られた時間を私達は生きていきます。それは、数ヶ月かもしれない、数年かもしれません。その覚悟を、はっきりと言葉にして共有する必要がありました。
「お父さんに肺癌が見つかった。ステージWといって、もう手術はできない。これから、抗癌剤で治療する。君達は何が起こっても覚悟を決めて、見ていて欲しい。お父さんの人生は、幸せだった。君達の父親になれて、本当に嬉しかった。撮りたい写真を撮り続けることができた。すべて、お母さんと結婚したからだ」
 泣いて、そう語る父の言葉に、子ども達も泣きました。次男が泣きながら訊きました。
「これから、四人家族ですね」
 まだ五人です。
 それから、もう一つ、大切な約束をしました。
 私達は、自らこの道を選んだのです。網走で治療することも、抗癌剤の使用も、主治医の先生も。そして、その道は生へと続いているとは限りません。どんなことがあっても、誰も責めない、後悔しない。
 そう決めて、彼を再度網走に送り出しました。
 結果的には、彼が26年間を過ごした家に戻ることはありませんでした。

 現在の癌治療には、まず遺伝子の形に合わせた分子標的薬の使用が検討されます。これが効けば、1、2年は体調が戻るのではと期待していました。しかし、彼の遺伝子には、どの薬も適合しませんでした。
 ステージVだと思っていたら、ステージWになる。分子標的薬を使えば、日に日に衰えていく体力も一時的にせよ少しは回復すると思っていたのに、それが使えない。あとは、オプジーボの使用です。ノーベル賞の本庶先生が開発したお薬。夢の治療薬。でも効く人は2割。検討の結果、他の薬剤と合わせて4剤で臨むことになりました。
 でも、次々と希望を潰されてきて、ここで、選ばれた2割になれる気が、私はしませんでした。結果的に、薬は効きます。しかし、それ以上に彼の身体は、糖の不足と大量のサプリでイレギュラーなものになっていました。
 更には、コロナの影響で人手が足りず、治療の開始が二週間も遅れました。入院を待つ間、網走で一人暮らしです。毎日、生存確認の電話をしました。疲れて眠りこけているときも多かったのですが、起きるまでコールしました。
 ようやく入院の日が来たときには心底ほっとしました。彼も、久しぶりに食欲が出たと喜んでいました。それまで、ほとんど食べられなかったのが、院内のコンビニでアイスやパンを買って食べるほどになりました。
 現在の抗癌剤治療は基本、通院です。彼が入院したのは、一人暮らしができる状態ではなかったからです。一週間ほど入院したら、様子を見て名古屋に戻り、それ以降は、名古屋と網走を行き来して抗癌剤治療を続け、網走を引き払う予定の3月以降、名古屋で治療、という予定でした。
 そんな病状だったのです。薬も、どうやら効いているみたい。
 毎日、LINEを頻繁に交換しました。
 一年生存率50%。それが彼の病状です。でも、なんだか行けそうですね。窶れたと言って送ってくる自撮りも、それほど変わっている様子はなくて。懸念していた脱毛も、あまりありませんでした。
 雲行きが急に変わったのは、一本の電話からです。
 いつだって、物事は急に悪くなるのです。


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