2020.03.10
ドラマを観るのが大好きです。
録画じゃなくて、今風の言葉でいう「リアタイ = リアルタイム視聴」。わくわくしながら次回を待つのがいいんです。今期は「女子高生の無駄づかい」が良いです。
原作はマンガ。アニメ化を経ての実写ドラマです。登場人物が仇名で呼ばれているんですが、それが身も蓋もない。おたくの「オタ」、感情を表さない(作品中の表現によると「感情が死滅している」)「ロボ」、中二病を拗らせまくった「ヤマイ」、小学生に間違えられる「ロリ」。主人公は「バカ」、バカだから。
とか言うと、バカが苛められていて、そこからの社会派な展開が予想されるかもしれませんが、これは彼女達のゆるい日々を描いてて、コメディというより、完全にギャグです。
そして、時代が違うというのに、私は共感しまくっています。
こんな単純な仇名リアルでつける人はいない、と言わせる為の設定なんだと思いますが、私のクラスには実際に「あたま」という仇名の男子がいました。命名理由、頭が大きいから。イケメンでバレー部の主将で、クラスでも中心人物だった為、後に「かしら」「おかしら」と変化しました。
そう言えば、子ども達の話を聞いていても、仇名って出てこないなあ。
いじめに繋がるという理由で、避けられてでもいるのでしょうか。先生を仇名で呼んだりもしてないし。確かに、本人が嫌がるような仇名はいけません。仇名って、粋に楽しむもので、人を傷つけるものではないんです。
私の高校時代は、今思い出して、子ども達にこんなことがあったんだよ、と語ろうとしても、笑いを堪えきれず語れない、という代物です。
とりあえず、一番の思い出として、学園祭でも修学旅行でもなく、調理実習がくる時点で、尋常ではない。
とにかく調理実習がハードで、授業二コマ分と給食の時間を使って、4品から5品を作って食べる、それをノートにまとめて、カラーの出来上がり図も載せて、翌日提出。これが、二年生の二学期と三学期、毎週続きます。白眉はクリスマス直前に行われる、鶏の一羽解体からのホールケーキデコレーション。後者は前者のご褒美です。多分。
多くの女生徒は、それらを何事もなくこなして行くのだと思います。ドリアが火を吹くとか、ポットパイのパイ部分が全部容器の中に落ちるとか、ホールケーキがてんこ盛り過ぎて蓋が閉まらないとか、私たちだけでしょうとも、ええ。
その時期は、テストも筆記はなくて、実技だけでした。オムレツを箸だけでひっくり返して、焦げ目を付けないように作るとか、蛇腹キュウリを30cm以上に伸ばすとか。
鯵や鯖の調理も鱗を取るところから始まったので、鯵の鱗を飛ばし合って遊んだものです。鯵の鱗があんなに痛いなんて、あの先生にお会いしなければ知ることもなかったでしょう。いや、知らんでも良いが。
だから、何も考えないで、日々を楽しく暮らしていたかと言うと、さにあらず。葛藤を抱えていればこそ、小説なんか書いちゃったりして、それを出版社に送りつけたら新人賞もらって、ベストセラーになって、ドラマや映画になって、世の中で持て囃されてる自分と、現実を地味に生きてる自分の乖離が理解し難く、葛藤を昇華させるための小説が、一番の葛藤を生み出してしまったと言う、実に厄介な青春を送っておりました。
そして今年度、あのとき映画のオーディションで主役を射止めた中学生が、朝ドラでヒロインのお母さんを演じて、その親友役だった中学生はゴールデンのドラマで三番手を演じて、いずれも「あんなに可愛かったのに、大人になったなあ」と言われています。私が三十年以上のときを経て、映画の本編と制作過程のドキュメンタリーフィルムをスクリーンで観たのも先日のこと。
子ども達が小さい頃は、早く大きくなってほしいって、誰でも思うでしょう。いろいろ自分でできるようになって、自分の問題は自分で解決して。でも、現実は子どもに関する悩みって、大きくなってからの方が、シビアです。確かに、親が自分の時間を確保することはできますが、葛藤する子どもを見守るのは、駄々をこねる子どもの相手の百倍くらい、心がやられます。
暴れる子どもは、自分が受け止めたら良いんですが、誰かに傷つけられる我が子の代わりに傷ついてあげることはできません。辛さを代わってやれたら良いのに。もしかしたら、見守る親の方が辛いかも、と言うくらいに辛い思いをしても、子どもの痛みはこれっぽっちも減らないのです。
信じて待つ、そんな勇気を持つことしかできない。
嵐が過ぎるのを信じて待つのは、忍耐でも、逃げでもない。勇気です。
信じなければ、過ぎるものも、過ぎていきません。
私は十六歳で書いた小説が認められて、十七歳で作家になりました。
早くに世の中に出たことで、そうそう良い思いばかりをしてきたわけではありません。何より、十六歳になる自分の子ども達に、「お前はこの歳に何をするのか」と言う課題を突きつける結果になってしまった。
だけど、頑張ったことが報われるのに、時間がかかることを知ってるのは、親として教育者としての、メリットだと思います。それを子ども達や教え子達に伝えることができるから。あの頃の自分に伝える代わりに。
頑張っても頑張っても、報われないと思っている十代、二十代の私に、伝えられたら良いのに。それが報われるのは何十年も先だって。
あー、それから、二十年ちょっとしたら、椙山女学園大学に勤めて、OG会担当もするけどさ、OG会長、家庭科の先生だからってのも。
子育てだってそう。結果が出るのは、ずっと先です。
愛と勇気で、一日ずつを乗り越えた、その先ですから。